【刀剣乱舞】短刀を解説(小夜左文字、乱藤四郎、薬研藤四郎、平野藤四郎、厚藤四郎、博多藤四郎)

【刀剣乱舞】短刀を解説(小夜左文字、乱藤四郎、薬研藤四郎、平野藤四郎、厚藤四郎、博多藤四郎)

「刀剣乱舞」の短刀とは?

小夜左文字、乱藤四郎、薬研藤四郎、平野藤四郎、厚藤四郎、博多藤四郎

小夜左文字(さよ さもんじ)

小夜左文字

鎌倉時代 筑前國の刀工、左文字作の短刀。刃長8寸9厘(24.5cm)、反りはわずか1952年7月19日に重要文化財に指定された。所有者は株式会社ブレストシーブで、「日本刀剣等文化財の保存技術等開発」の事業先。2015年8月8日に宮崎県中鉢美術館にて展示された。筆者は行けなかったのでまたやってほしいです…

刀剣乱舞でのキャラ性は画像の通り、自らは綺麗ではなく汚れている、怨念が渦巻いた刀とし、「復讐」に固執している。というのも、彼の来歴はたしかに復讐にまみれたものであった。

その昔、遠州で暮らしていた浪人とその妻子がいた。しかし浪人が亡くなり、恐らく子を育てるための金に変えるため左文字短刀を町に売りに行った。その短刀が後の小夜左文字である。だが嫁が町に向かっている最中、山賊に襲われた。嫁は抵抗したが短刀を奪われ、恐らくその短刀で殺され、そのまま短刀は盗まれた。その現場が小夜の中山だったという。残された子は母の妹に育てられ、成人したのち掛川の研師に弟子入りした。

しかし運命とは残酷なもので、研師になったその子のもとに母を殺した山賊がこれまた不幸にも盗まれた短刀を研ぎに出してきたのだ。そして山賊は「この短刀は昔山の中で女を殺した時に掻っ払ったもんだ。女はそのままこの短刀で殺してやった」と自慢げに話した。子はその話を聞き、左文字の短刀を見るフリをして、そのまま山賊を殺し仇討ちを果たした、というものだ。

号の由来は、その話を聞いた掛川城主山内一豊(やまうちかつとよ)が左文字の短刀を召し上げ、その後細川幽斎(ほそかわゆうさい)が小夜左文字本人が言うように西行法師の歌

「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」

(訳:年老いてからこの山をまた越えることができると思っただろうか、いや思いはしなかった。小夜の中山を越えることができるのは、命あってこそだ。)

から取ったものだそうだ。

一連の流れからも、彼の来歴が綺麗なものとは言えないかもしれない。刀剣の本分ゆえに幾度となく血にまみれしかも巡り巡って恨み辛みに付きまとわれたもの。だがそれを、刀剣を手にする者ではなく、刀剣自らが見出されたことそのもの悪態を吐くようなところも彼の優しさいじらしさからかもしれない。

ステータスでいうと、短刀の中では機動が遅い方だが後藤藤四郎と同じくらい打撃が高い。復讐劇に巻き込まれたのと、あの細川に引き取られたことで手にしたのかは知らないが、存外冷静なようで真剣必殺はあまり出さないのが筆者の印象。大きな笠は、はじめに亡くなった妻であり嫁であり母であった女が着けていたものなのかな。

乱藤四郎(みだれ とうしろう)

乱藤四郎毎回恒例粟田口派吉光作別名藤四郎の作。男の娘ですが男らしさは捨ててない、しかし極た時のアイドル化は流石の筆者も唖然とした。可愛いからよし。まだ見れてないけど。

名物 乱藤四郎。個人蔵で重要美術品指定。刃長7寸4分半(22.6cm)、反り僅か、乱れ刃で互の目(ぐのめ)乱れという変化が激しく均一でない刃文。吉光作の中では珍しい乱れ刃の刃文だが、筆者が知る限りではほかに焼失前の一期一振も乱れ刃だったそうな。

現在実装されてある中の吉光作では唯一の乱れ刃なため、他の吉光作とは違い服装にも差がある。前述した互の目乱れが「変化が激しく均一でない刃文」ことからかスカートを履き、刀剣乱舞花丸ではアイドルに憧れたり、極でフリフリの可愛らしい姿になっていたり、ボイスでも「僕と乱れよ♡」と可愛さ満載だ。…もし一期一振が焼失してなかったら乱みたいになっていたんだろうか…兄弟揃ったら可愛いだろうなぁ…

号の由来はこれまた細川氏が出てくる。乱藤四郎は以前細川家伝来の刀剣で細川勝元に所持されていた頃は乱吉光、細川の乱れ藤四郎と呼ばれ、そこから今の乱藤四郎になった。

薬研藤四郎(やげん とうしろう)薬研藤四郎

こちらも続けて粟田口派吉光作。刃長8寸3分(25.1cm)。

筆者のゲームでの彼への第1印象は、目の悪かったことと当時利用していたパソコンの画質の悪さから「目の赤い白蛇」に見えているので若干怖くも感じる。もちろん好きなのだが、彼を見ていると彼を通して真白き別の何かがあるようで首をひねっている。

さて、名物 薬研藤四郎を始めとする吉光の短刀は「主人を斬らない」ことで箔がついている。薬研藤四郎もその1振りだ。

薬研藤四郎といえば織田信長(おだのぶなが)が本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に襲撃されるまで腰にさしているほど大切にされ、主人と共に焼失したとされる刀剣の1振り。元々、薬研藤四郎は本人も戦場育ちというように戦国時代から有名な短刀である。

その昔、畠山政長(はたやままさなが)の愛刀であった当時短刀藤四郎だった薬研藤四郎。畠山家で家督相続の内紛時、当時足利尊氏(あしかがたかうじ)の三管領であった細川家や足利氏にまで火の粉が飛んだ。追い詰められた政長は1493年に短刀藤四郎で切腹を測ったが2度3度斬りつけても腹は斬れなかったのだ。この短刀藤四郎は代々家宝として畠山家に大切にされていたのだが、「腹も斬れぬ短刀を大切にしていたなど」とヤケになった政長は近くにあった薬研(漢方などをすり潰す石製の腹筋ローラーのようなもの。釜○いがゴリゴリ動かしてたアレ)に投げつけてしまう。しかし、短刀藤四郎は政長の腹は斬れなかったのにもかかわらず、石製の薬研にはすんなり表裏を貫通して刺さってしまったのだ。このことから、政長は「この短刀は主人を斬りたくないと思ってくれた短刀である」とし「薬研通藤四郎」「薬研藤四郎」と名付けたのだった。結局、政長は部下の刀で自決してしまったのだが、巡り巡ってその話を持って1573年に信長に献上した松永久秀(まつながひさひで)によって名物 不動国行とともに名物薬研藤四郎は織田信長の手に渡り、由来とともに気に入られて常に腰にさすほどになったそうだ。

だが前述した通り、織田信長は最後まで薬研藤四郎とともに果てたことで薬研藤四郎は焼け身となったが、名物薬研藤四郎は本阿弥光徳刀絵図(ほゆあみこうとくかたなえず)には「焼き直し(再刃)」として掲載されているらしい。このことからどういうわけか本能寺から救い出されているようだ。実際、現在の所在は分かっていないことから真偽は定かではないのだが、もし願うなら、反りがなくなろうとと焼きが戻ろうと一目見てみたいものだ。心優しい短刀を。

平野藤四郎(ひらの とうしろう)

平野藤四郎

刀剣乱舞に実装されている短刀の過半数は吉光作の短刀のため藤四郎祭りになっている。それだけ藤四郎短刀が多くの人に愛され求められる刀剣の一種なのだろう。

名物 平野藤四郎は刃長9寸9分(30.3cm)と前述した藤四郎よりも大きい。短刀自体が、「長さ1尺以下の刀剣の総称」であるが、平野藤四郎は元々1尺あったので本当にギリギリ短刀という長さだったようだ。人からも平野藤四郎は「藤四郎短刀の中で1番の大振りな代表作」とも言われている。このことはゲーム中でも「懐に入ってしまえばこちらの間合いです」と本人が言っており、懐、つまり敵が刀を構えている状態で下から隙をついたが最後、その大振りの刃長で半歩身を引かれても仕留められる、ということだ。

平野藤四郎は主人を転々としており、現在は1882年に明治天皇に献上されたことで宮内庁蔵、お目にかかることはまずないだろう。だが、刀好きとして有名だった明治天皇に献上されたおかげで、刀剣が戦場から退いたあともさぞ愛でていただけたことだろう。自分のことのように嬉しくなれるのも、刀剣乱舞で思入れが深くなったおかげだ。本人も「献上されたこともある」と誇らしげにしていることから、よほど嬉しかったのだろう。

彼の由来は、平野藤四郎を所持していた商家、平野家からつけられた。所持していたのは、平安時代多くの刀剣を佩刀し京の清水寺を建設したことで有名な坂上田村麻呂の子孫にあたる平野道雪(ひらのみちゆき)。その後、豊臣家臣の木村重茲(きむらしげこれ)に買い取られ、この時まで1尺あった刃長を1分磨りあげ、身長が小さかった豊臣秀吉に献上、のち前田利長(まえだとしなが)に渡り、ここで短い間だろうが前田藤四郎と同じ場所に入られたのだろうと思うとほっこりする。多くの人が喉から手が出るほど供にしたいと思った藤四郎短刀だ、兄弟に会えることはそうそうないものの引き合うのかもしれない。

そして、前田家から1882年に明治天皇に献上された平野藤四郎は今でも人と家を守り続けている。

厚藤四郎(あつし とうしろう)

厚藤四郎

名物 厚藤四郎、刃長7寸2分(21.82cm)。東京国立博物館所蔵のため、時期を合わせて見にいけば会える刀剣。さらに1956年6月28日に国宝指定を受けている。

鎧通しに分類されるため長さの割に分厚く生まれた。その厚さなんと1.2cm。身近なもので包丁などを想像してほしい。それで、1.2cmと想像してみてほしい。めっちゃ分厚い。このことが厚藤四郎の由来にもなった。

分類されている鎧通しとは、馬に乗った鎧武者が右腰に差す腰刀のこと。本来刀剣は左腰に差し右手で抜き、左手は添えるだけで前に構えるもの(基礎型の話。流派によっては上段で構えたりすることもある)だ。だが右利きが多いことから馬の手綱を右手に持つように教えられるため、手綱、つまり馬にどう動いてほしいか伝える唯一の手段のため離すことができなくなる。すると必然的に刀は左手で扱うことになるため左腰にあると抜きにくいのだ。さらに馬上では弓を引くこともあり、その際左手に弓、右手に矢で射て次の矢も右手に持っておくため、これまた右手では扱えない。加えて、組み討ち中隙をつくときに右手で刀を持ち敵を抑えつつ鎧の隙間から急所に刺すため左手で刀を扱うことになる。

その全てを刃長が適度に短くかつ勢いよく刺し込んでも切りかかっても折れないために、「短刀」で「折れにくくするため分厚い」厚藤四郎のような刀が最適になのだ。

号といえば、当初刀剣乱舞での厚藤四郎は「あつとうしろう」、今は変更されて「あつしとうしろう」になっている。これは、そもそも厚藤四郎の読みが2通りあったこと、おそらくどこかの審神者が公式に「あつしでは?」と言ったかで2015年8月頃のメンテナンスにて変更された。それにより、刀帳(刀剣紹介での毎回添付してる画像がみれるところ)でのセリフも後半の「名前は文献によってアツとアツシでまちまちだけど、オレはオレだ。気にすんなって」が増えた。文献とは、筆者が調べた限り埋忠押し型(まいただおしがた)では平仮名の元となった漢字を使用した「安(あ)徒(つ)藤四郎」、享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)では1ページ目におそらくあつし読みで「厚藤四郎」。まぁどちらの読み方にせよ、刀剣乱舞での厚藤四郎は元気で気立てがよく、強くとも驕らぬ芯に厚みのある刀剣だ。

博多藤四郎(はかた とうしろう)博多藤四郎

そろばんが似合う藤四郎短刀第1位!名物 博多藤四郎。刃長8寸1分5厘(24.6cm)、反りほぼなし。1931年国宝認定後、重要文化財に指定された。

黒田官兵衛(くろだかんべえ)の息子、突撃バカの勇猛果敢な黒田長政(くろだながまさ)の長男として生まれた黒田忠之(くろだただゆき)が所持していた。黒田家は筑前國福岡藩だが、本人が言う通り博多の商人が得て、その博多の商人から買ったか献上されたかで忠之に渡ったようだ。そのことから、号は博多藤四郎となった。

ゲーム中のステータスでは打撃が特に低いが、全刀剣内で最速の機動(2017年11/10現在)。黒田家にいた他の刀剣もゲームでは実装されているのだが軒並み機動が速く、その中でも博多藤四郎は頭一つ飛び抜けている。もはや前述した高速槍とてレベルが上がれば負けなしだ。また、博多藤四郎は2015年6月11から始まった大阪城地下、地下に眠る千両箱で50階で待っていてくれた初めて藤四郎短刀だ。初めに待っていてくれたことと由来のことも含め、それ以降の地下に眠る千両箱では「ネコババー!」と小判を多めに見つけてくれたり、博多藤四郎を部隊に入れ地下に眠る千両箱に出陣すると、ボス撃破後多めに小判を入手できるようになった。

 

以上、今回の短刀紹介は藤四郎短刀祭りになったが、それだけ藤四郎の短刀が好まれ実装されていることが見て取れたと思う。

裏が取れなかったため詳しく書かなかったが、前述の薬研藤四郎のところで「藤四郎短刀は主人を守る刀」としたが、実は厚藤四郎は自決に使用されたことがある説がある。刀剣ゆえ血に濡れる機会が多いのは致し方ないとしても、守るために生まれたに近い短刀が自決に使用されるのはどう処理しても悲しく思う。しかも、藤四郎短刀の中で自決に使用された説(あくまで一説のため確証はないにしても)があるのは厚藤四郎のみ…好まれるのもときに考えようだと感じてしまうね。

 

【参考文献】

日本刀大百科辞典

名刀伝

名刀と日本人

【引用元】

「刀剣乱舞-ONLINE- DMM GAMES」

http://www.dmm.com/netgame/feature/tohken.html

 

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